藤和薬王寺ホームズ

生徒が下校し、空っぽになった五階建ての校舎の屋上。静寂に包まれた空間に、わたしは一人いた。先程からぽつぽつと降り始めた冷たい雨が、だんだんと身体を湿らせ、体温を徐々に奪っていく。
傘? そんなのいらない。どうせ、わたしは——

わたしは金網のフェンスを乗り越えた。視線を真下の校庭に向ける。元々高所恐怖症のわたしには、目眩でくらくらして来そうな高さだ。無意識に、足元がガクガクと震えてくる。
やめる? わたしは自分に問いかける。ここでやめるのは簡単だ。簡単なことだけど……
わたしは、ふっと目を閉じた。同時に甦って来る、この一ヶ月間の日々。

話は、それまで一番仲の良かった親友・池澤琴美が、急にわたしを避けるようになった、一ヶ月前まで遡る。不審に思ったわたしは、自分が何か気に触るようなことをしたのかもしれないと、彼女が学校を休んだ日の帰り、お見舞いもかねて、彼女の家へと向かった。琴美はクラスの女子の中でも、比較的大人しく、優しい性格の子だった。逆にわたしこと藤倉菜穂は、自分で言うのもなんだけど、基本的に元気で明るく、がさつなのがタマニキズってタイプだ。当然、部活も運動系のラクロス部に所属している。でも何故か琴美とは気があった。それまで登下校も一緒だったし、休み時間にはいつもお喋りしていた。それが、何故……?
そんなことを考えつつ、歩いていると、琴美の住んでいる五階建てのマンションに到着した。エレベーターは故障中で使用禁止だったため、仕方なく、わたしは琴美の部屋のあるマンションの最上階へと続く階段を登り始めた。
「ひえ〜、いつもながら、高いこと高いこと……」
最上階にたどり着いたわたしの頬を冷たい汗が流れる。体力的には問題ないんだけどね。とりあえず、わたしは琴美の部屋のチャイムを鳴らす。琴美の両親は共働きのため、週末以外はいつもいない。だから、きっと一人で寂しい思いをしているだろう。そう思いながら、扉の前で待つわたし。けれども、琴美は一向に出てくる気配がない。
——いないのかな?
しばらく待った後、諦めたわたしは、元来た階段を降り始めた。登るのは嫌いだけど、降りるのは好き。だんだんとアスファルトの平らな地面が近づいて来る、この安心感。多分、夕食の買い物に行ったんだろうな、琴美は。ここから商店街まではほぼ一本道、行き違うということは、まずない。しかも、わたしには商店街に行く用事もちょうどあった。よし、行ってみよう、やってみよう!
明日は久しぶりに美術の授業で写生に行くんだけど、絵の具を切らしちゃってるんだよね。お母さんからもらったお金は、ちゃんと持ってきたから大丈夫。
わたしの周りでは、追いかけっこをしてる子供たちが、キャッキャと来ては通り過ぎて行く。皆、身体よりも大きい塾のカバンを背負っている。こんな小さいうちから、頑張るねえ。あっ、そうだ。ついでに『フリーダム』(最近できた、なかなかおしゃれな雰囲気のあるお店なんだ)のベリーナイス・スペシャルチョコクリームクレープ、食べちゃおうっと。そんなことを考えながら、鼻歌交じりに道を歩いていると、公園までやってきた。
と、そのとき──
(……琴美?)
見ると公園の中心付近にある噴水のそばで、琴美が倒れている。おそらく彼女が買ったのであろう食材などがビニール袋から飛び出し、あたりに散乱している。

状況からわたしは悟った。先輩によるいじめが琴美に対して行われていたのだ。
「やめてください、先輩!!」

「あら、あなたラクロスやってる…」
どうやら顔を覚えられていたらしい。

「ふふ、あなたに免じて、今日のところはこれで引き下がりましょう。でも覚えておきなさい。私たちを怒らせたことを。これからたっぷり、後悔させてあげるわ」
見開かれた瞳、にやりと歪んだ唇。その顔はまるで、悪魔そのものだった。そして三人は去っていった。嘲るかのような、高笑いを残して……。
そう、この日を境に、彼女たちは獲物(ターゲット)を琴美からわたしへと変更したのだ。嫌がらせのメール、呼び出し、時には暴力と……執拗に、わたしを狙ってくる先輩たち。ぼろぼろになって帰る日も度々あった。でも、決して誰にもこのことを言いはしなかった。余計な心配をさせたくなかったし、何より、わたしの為に迷惑をかけたくはなかったから。琴美には、誰にも言わなくていいから、平気だからと、毎日笑顔を見せていた。それでも、先生には一度だけ相談してみた。でも、わかった、という返事を言う返事をもらっただけで、その後特に何かしてくれた、ということはなかった。それだけならまだしも、最近になって、どことなくわたしを避けているような雰囲気が出てきた。

——もう、さすがに限界だ。わたしなら、どんな仕打ちをされても大丈夫。絶対に屈しない。所詮そんなのは、自身の自惚れに過ぎなかった。

わたしは靴をそろえた。そして…屋上から飛び降りたのであった……

鶴丘大学キャンパス…

「人が…倒れてる? 大変! 医務室へ連れて行かないと」

わたしこと高杉優子、通称ユウはその子を何とか抱えるようにして、大学の医務室へ向かった。

「あの、すみません! この子が校庭に倒れてて…」

ぐるりと椅子をまわし、こちらを見つめる医務室の保健の先生。
「落ち着いて、まずは寝かせましょう、手伝ってくれる?」
「あ、はい!」

わたしと先生は二人でその子をベッドへ寝かせた。

どうやら気を失っているだけみたい。良かったぁ…

「それにしても…中学、高校生に見えるこんな子がなぜ大学に…?」

わたしに聞かれても困りますって。 藤和薬王寺ホームズ